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2025(R7).8.3(日)

8月3日「潜在エネルギーの培養①」

いわゆる見てくれは堂々たる体格の人が案外に脆かったり、ちょっと働くとすぐフウフウ云ったりして精力の続かない人があるものです。
それに反して、見かけは弱そうだが、非常に精力的で不屈不撓の人があります。
見てくれと内実、顕在面と潜在面は釣りあわないことが多いものですが、肝腎なことは潜在エネルギーを旺盛にすることです。

自ら反(かえ)る

自己を分裂から救うには先ず自己に反ることから始めなければならない。そして本具する所の自性を徹見し、それを十分に発揮することである。
陽明学致良知といい、禅家で見性成仏というも同じことである。

自ら反らざれば、それは自ら反くことになる。いかなる時も人間としての正しい考え方は、自分の内部に第一原因を発見することでなければならない。

常に自ら反る人にして真に人物として成長するものだ。
(照心語録)

活学百言「94.芸と心」

私は幸か不幸か自分の学問が精一杯で、芸事など何一つできない人間であるが、身内には多芸の人もあり、母は三味の名手であった。
世間に出るようになって、友人に案外芸達者の少なくないのによく驚いたものであるが、特に芸道の名人達の苦心談や評論には感服させられることが多く、そういう記録を随分蒐読した。

先日大阪で、徳川時代の名優三代目中村歌右衛門の話が出て、備中吉備津宮の神職藤井高尚と彼との間の問答に非常な興味を覚えた。
高尚もなかなか芸道のわかる人であったが、ある時歌右衛門と会談の折、高尚は雛助(後の小六)と団蔵のことに及んで、雛助は、芸を少くして心持を出そうとしたが、団蔵の方は芸を大変こまかに演じた。貴方はどう思う?と尋ねた。

歌右衛門の好敵手嵐吉三郎は、この雛助に学んだ名優である。
歌右衛門は雛助が芸を少くして心持を出そうとしたのは実に上手のわざで、余人の及びもつかぬ事である。
何の役をやっても、情を尽して見る人々の心をそれぞれに動かすというのが彼の独特の芸で、こんな役者は昔も稀(まれ)であったが、今は絶えて居らない。
団蔵は芸をこまかにして見る人々の心に少しも逆らわず、何をしても褒めそやされたが、これも類まれな上手である。
然し今時の役者の上手といわれるような人々は、団蔵をまねようとはするが、雛助を学ぶことはできない。
只吉三郎だけは、之を学ぼうとする志があったと答えている。英雄、英雄を知るの類である。

高尚が又、梅幸や鯉長の芸を見ると、いずれも情を主として、見る人の心を動かすようにと志しているが近頃の役者は仕草の方ばかりを主にして、見る人をただ面白がらそうとするようではないかと話したのに対して、彼は昔と今と時世が変ったといっても、芸はやはり情を主とするのが宜しい。
面白くするということも、役によっては良い場合もあるが、ただ面白くするということを主眼にするのは悪い。
芸をおとなしくして、情がよく仕草にうつり、仕草がよく情にかなうようにするのが肝要だが、さてなかなかそうは参らず、我も人も面白くする方ばかりに流れるものであると答えている。

現代どの方面を見ても、この談話の通りではないか。思想評論界、文壇芸能界、事業界、政界までが、いかにして大向うの気に入られようかとねらって、面白くすることばかりに馳せて、甚だ心というものをおろそかにしている。
もっと心入れがほしいものである。