【大雨で被災した地域は猛烈な暑さに】
— NHK おはよう日本 公式 (@nhk_ohayou) August 13, 2025
片づけなどの際にはこまめに休憩をとるなど熱中症対策の徹底を
西日本と東日本では午後から大気の状態が不安定になり局地的に雨雲が発達するおそれがあります
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8月14日「修養が足りない現代日本人」
— 郷学研修所・安岡正篤記念館 (@noushikyogaku) August 13, 2025
現代日本人は人物というものができていない。修養が足りない。人を見れば悪口を言って、自分の事をたなにあげておいて、そうして一向努力はせぬ。嫉視誹謗し、そうして他に向かって大言壮語ばかりする。… pic.twitter.com/u9BjmwdGjx
8月14日「修養が足りない現代日本人」
現代日本人は人物というものができていない。修養が足りない。人を見れば悪口を言って、自分の事をたなにあげておいて、そうして一向努力はせぬ。嫉視誹謗し、そうして他に向かって大言壮語ばかりする。
行儀作法もなっていないという傾きがある。これを根本的に是正しなければ本当の意味において日本精神を発揚することはできない。
外に発展しようと思えば思う程、やはり内に深めなければならない。
質・文に勝てば則ち野なり
— 郷学研修所・安岡正篤記念館 (@noushikyogaku) August 13, 2025
文・質に勝てば則ち史なり
文質彬彬として、然る後に君子なり
(論語)
人間には質と文とがある。質は言うまでもなくうちに実存するもの、即ち内実であり、内実の表現が文に外ならない。
(『論語に学ぶ』)
その質と文とがよく調和されてをるのが彬彬であって、… pic.twitter.com/SmKmSia3Ku
質・文に勝てば則ち野なり
文・質に勝てば則ち史なり
文質彬彬として、然る後に君子なり
(論語)人間には質と文とがある。質は言うまでもなくうちに実存するもの、即ち内実であり、内実の表現が文に外ならない。
(『論語に学ぶ』)その質と文とがよく調和されてをるのが彬彬であって、
文質彬彬として然る後に君子だというのです。
しかし人間は、…いずれかに偏するものである。
こういう文明・文化の危機を救うためには、…質をして文に勝たしめるとも、文をして質に勝たしめないのが確かによろしい。
(『朝の論語』)
揺らぎと信念。「天下一人を以て興る」中野正剛
— 一般財団法人 尾崎行雄記念財団 (@OzakiYukio) August 13, 2025
国家の存亡がかかっていた戦時下、当時の政治家は何を想い、何を発して来たのか。
8月15日の終戦の節目までの間、尾崎財団SNSでは戦争末期の政治家たちに注目し、さまざまな観点からスポットを当てて参ります。… pic.twitter.com/Om8ARnFtwn
揺らぎと信念。「天下一人を以て興る」中野正剛
国家の存亡がかかっていた戦時下、当時の政治家は何を想い、何を発して来たのか。
8月15日の終戦の節目までの間、尾崎財団SNSでは戦争末期の政治家たちに注目し、さまざまな観点からスポットを当てて参ります。第8回の本日は、尾崎行雄と並んで演説と文筆の二つを武器に戦った政治家・中野正剛について触れます。
翼賛選挙は、挙国一致を掲げる当時の軍政に対して「国家の危機を救うため」参加したという好意的な見方もあれば、昨日のようなレジスタンスの対象でもあった両面を持ち合わせています。
翼賛選挙において、中野は非推薦候補の中でも特異な存在であったと言えましょう。
国会図書館「近代日本人の肖像」によると、中野には次のような解説が添えられています。
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早稲田大学卒業後、東京朝日新聞記者を経て、東方持論社主筆となる。大正9年(1920)衆議院議員となり、以後連続8回当選した。雄弁家として知られ、昭和4年(1929)浜口内閣の逓信政務次官となる。11年東方会を結成し南進論を唱えた。日米開戦後は東条英機と対立し、18年東条内閣打倒の重臣工作を企て失敗。憲兵隊に取調べを受け、帰宅後、割腹自殺した。
http://ndl.go.jp/portrait/datas/304.html?cat=49
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芳賀綏・東京工業大学名誉教授の『言論と日本人』(講談社学術文庫)によると、中野の雄弁は次のように評されています。
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中野正剛は、永井柳太郎と並び称された雄弁家であった。ともに早稲田の出身、大正から昭和初期の弁論史をかざった最も華やかな存在だった。
ただ、永井が荘重華麗なレトリックを得意とし、緻密に練った原稿を用意するのを常としたのに対し、中野は原稿を作らない型の雄弁家だった。が、演説速記がそのまま正格の名文だと評された。
中野を“最後の漢文型政治家”と評する声もあるように、若くして漢文の素養・修練を積んだことが、辞句乱れぬ演説を生むのに力があったであろう。
――原稿は作らなくても、要旨を巻紙に書いて想を練り、前日ぐらいから登壇するまで緊張・興奮の状態を持続した。
中野の翼下にあった青年たちが、演説の火は朝から気が重いと話しているのを耳にして、かれは「それが本当だよ。
いつでも、どこでも、ノンノコシャアと一席弁じるようなやつにロクなやつはいないよ」と語ったと、門下の猪俣敬太郎は伝えている。そうした緊迫した心の状態から、かれのいくつもの大演説は生まれたのだった。
ヒトラーやムッソリーニに傾倒した中野だったが、一面において自由主義的志向をも有するという混在状況がかれにはあった。
大正デモクラシーの時代に中野が民本主義に傾倒した影響は後年まで彼の中に存在して、よみがえったのだろう。
昭和17年11月10日、母校早稲田大学で行った講演「天下一人(いちにん)を以て興る」で中野は述べた。
「近来、ユダヤ主義排撃と自由主義排撃が唱えられて居るが、この言葉もまた例の国民服の使徒達により、官僚的無邪気さを以てとんでもない方向へ用いられて居る。私は切にこれを遺憾に思うものである。“我に自由を与えよ、然らずんば死を与えよ”という言葉は壮烈な言葉である。こんな気迫はいわゆる自由主義者やユダヤ人が持ち合わせるものではない。私はかくのごとき自由の精神を尊いものと思う。……」
「国家を構成する各個人が各々真善美(しんぜんび)を発揮することは全体の真面目を躍動さすることである。……生物に於て健全なる細胞は全体の為に必要である。」
「戦争は容易ならざる段階に入って居る。……誠にして明らかに。理を究め性を尽くし気を熾(さかん)ならしめよ。……諸君皆起てば諸君は日本の正気を分担するのである。……諸君は自己に目醒めよ。天下一人を以て興れ。これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。」
烈々3時間余りの熱弁が終わるや、「都の西北」の大合唱がおのずから起こって大隈講堂をゆるがした。
中野が日比谷公会堂や両国国技館で演説会を開くと、数時間前から入場者の列ができるほど、かれの雄弁は人気があった。
昭和17年12月21日、日比谷公会堂の演説にも、午前6時から早くも行列が作られた。
1万人が並び4千人が30銭の整理費を払って入場した。――午後1時、中野は登場して「国民的必勝人陣を結成せよ」と題して開口した。政府批判をしないことを条件に許可された演説だったが、中野は反政府の姿勢を明快に示した。
「……誤れる権力と誤れる理念で治められるときに抵抗する者がない。弁護する者がない。抵抗すると“貴様は自由主義か、営利主義か、非国民である”という……」
「人に求めるときに孔孟すら難しとするところを求める。そこらの何でもない親爺さんなんかに向かって、営利主義怪しからん、お前は非国民だという。孔孟の難しとするところを庶民に求める。しかして、ゴロツキでも卑しむところを権力ある者がみずから行うにいたっては、天下にどうして必勝態勢を作ることができるでしょうか。」
聴衆は感奮して聞き、夕闇の中を家路についたが、政府はいたく喜ばず、これ以後、全国にわたって、中野の演説は許可されなかった。
口を封じられた雄弁家が、旬日の後、筆をとった『朝日』紙上の一文もまた弾圧の一因となり、異色ある国士・中野正剛は自決へと追い込まれるにいたる。
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尾崎行雄との対比を直接示す文献は見当たりませんが、こうした中野の姿勢は、かつて討薩論や尚武論を唱えるも不戦に転じた尾崎に通ずるものがあります。
揺らぎながらも、信念だけは曲げなかったのか。あるいは信念ゆえに、揺らぎ続けたのか。
大政党に属せずに中野が気を吐き得たのは、尾崎と同様に自らの演説と文筆を拠り所としていたからでした。
自刃した中野の書斎には、それまで傾倒したヒトラーやムッソリーニの肖像は取り外され、机上には大楠公・楠正成の像が置かれ、「大西郷全伝」が開いたまま置かれていたそうです。
楠正成といえば、尾崎も昭和12年の議会において「正成が敵に臨める心もて我れは立つなり演壇の上」という辞世を懐に登壇しています。次回投稿では「不敬事件」と並ぶ、尾崎もうひとつの闘いについて触れます。
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